一心の信心とは、


昭和五十四年  三月  一日  朝の御理解

御理解  第  九十七節  「神を拝む者は、拍手して神前に向こうてからは、たとえ槍先で突かれても後ろへ振り向くことはならんぞ。物音や物事を聞くようでは、神に一心はとどかぬ」

  一心の信心をさせて頂く。これは勿論拝む姿勢を教えておられますけれども、この一心というのは、私はいよいよ九十八節にございますように、「心は信心の定規じゃによって」とおっしゃる。一心の信心をさせてもろうて、自分の中におかげ頂かれると言う確信がもてれるような、言うなら心が乱れておる、心が不安でたまらない。これは自分の心の定規が狂っておる証拠ですから、そういう信心によらなければ頂けない安心、喜び、そういうものをおし計って自分で自分の心をのぞいてみる。そこに自分の信心の度合いを分かることができる。

  そういう信心を目指す限り、言うならば、九十九節にありますように、「無学でも人は助からんことはない」  私は、ここでは本気で合楽理念を覚えて、そしてそれを行じようという気になれば誰でも行じることができる。とても人間業では出来ないと言うたむづかしい戒律とか、一つの掟と言うたようなものがない、しばられるものがない、しかも嬉しくう楽しう有難う、しかも愉快にもなれれるような手立てがある。
  私はこの「無学でも」と言うものはそういう事だと思う。学問がなからなければ、人が賢こうなからなければと言うのではない。言うならば誰でもがおかげを受けられると言うのが、私は九十九 節。

  いわゆる最後に百節の、それこそ「子孫繁昌」そういう最終的なおかげの基盤、基礎は、私共の信心によって培われる。信心によって確固たる不動のものにして行かねばならない。これならば子にも孫にも伝わって行くと、そういう道を金光大神は教えるとおっしゃる。ですから九十七節とね、今日言う九十八、九十九、百節と、百節のおかげを頂くための一心の信心とは、ただ拝む時だけが神に一心であってはいけないということね。

  いわゆる「神に一心とは迷いのないことぞ」ともおっしゃる。私共がどういうような事があっても驚かんですむ、迷わんですむ、言うならどういう槍先で突かれるような事があっても、後ろを振り向かんですむ程しの信心が、一心の信心によって出来る。それは拝む時だけの一心じゃ出来ないね。拝む時も一心ならやはり教えを頂く、その教えを行ずる事にも一心、それを稽古していく、その最中が楽しいのであり、ありがたいのである。

  昨日  福岡の稲員さんがお礼に出て見えられた。丁度あちらはお神様を奉斎されて一年になる。それから一年目には、改式と言うような大きなおかげをうけられた。もう一家をあげて本当に有難い、本当に勿体無いおかげを受けておられます。昨日お参りになったのは、母が不思議なお夢を頂いたと言うことであった。おばあちゃん、それが亡くなられた連れ合いですね、稲員のおじいさんがお風呂へ入っておられる、そしておばあさんが背中を一生懸命研いてやっておる。背中を洗ってやっておられる。外には沢山な燃料があってなんぼでも風呂の下が炊いてある。こちらにはうめ水だと言って沢山うめ水がそばに置いてあると言うお知らせであった。皆さんどう思うですか。
  私は一心と言う事はね、もうあなた一心、この方一心という事だと思うんです。この世では金光様に助けてもろうた。あの世では如来様からお救いを頂くと言ったようなのは、これは一心じゃないでしょうもんね。

  本当にお道の信心がわかりだしたら、言うならば稲員さん丁度一年目には改式のおかげを頂かれる程しのおかげを受けられた。もうここで一心が決まった、もう生きても死んでもあなた一心という事になってきた。
  そして先月の半ばでしたでしょうか改式祭がございました、まあ大変な改式祭でした。
  末永先生があちらへ斎主で参りましたが、私は後から聞かせて頂いた話しでしたけれども、末永先生の御礼が時価五百万円もする額を頂いて来てる、絵を。私はそれを後で、そんなにするものとは思わなかったけれども後から聞いてもうびっくりしました。
  「末永先生、これはあなたが南米に行かれたときに、もしお金がない時には、これは右から左に売れるものだからね、本当のものだから、だからこれをあなたに差し上げます」と言ってあちらのご主人がやられた、と言うんですよね。そりゃ勿論教会には教会で、言うならば改式をされたと言う喜びを形に表しての、一家を上げての喜びでした。それを神様も喜んで下さるという感じですよね。勿論末永生はそれを、「私が南米に言ってお金が足らんと言うような事は絶対あろうはずがない」と確信するところから、「これは合楽にお供えするのが本当だ」と言うて合楽にお供え致しましたけれどもね、頂いて来ているものを。
  そしておばあさんが昨日ですから、一昨日お夢の中に頂いておられるのが、いわゆるお先祖であるところの、連れ合いであるところのおじいちゃんがお風呂に入っておられる。背中を一生懸命だから洗ってやる。垢をおとしてやると言うことはやはりね、その霊様が徳を持って行っとるとは思えませんからね、お風呂に入れると言うことは極楽という意味なんです。暑かっても一汗流す、寒かっても暖かってあ々極楽と言うでしょう、お風呂の中でね。
  そういうおかげを頂く手立てが出来てきたという事。しかも私は有難いことは、その燃料が外側にいっぱい積んであってなんぼでも炊けれるようになっておること。そしてこれはたぎりよるけん熱うして入られんと言うのじゃなくてね、うめ水もそこにちゃんと沢山用意がしてある、というところが非常に印象的であったと言うのですね。だからいつも極楽に垢を落としさえすれば入られるというところまで行っているんです。これはね、霊の世界にある霊のことだけではない、人間の世界でもそうす。

  本気で私共がです、いわゆる真・善・美に輝く貧・争・病のない世界に住みたいと本気で思うならば、まず垢落としからです。その日その日の改まりからですね。その改まるという事に一心を立てろとこう言うのです。
  信心は日々の改まりが第一だとおっしゃる、その日々の改まりが第一だと言うね。
  不思議に改まっていく、研いていく、新たな自分が出てくる不思議な心の状態が開けてくる。今まで好きであった、せねばおられないと言うような事がしたくなくなってくる。もうこげな事はしょうごつないと思っておったような事がしょうごつなってくる。不思議なんです、心が変わってくる。この辺のところに御理解第九十八節の「心は信心の定規じゃによって」と言う事になるのです。
  私の周辺からね、言うならば嫌いなものがなくなってくる。あの人も良い人、この人も良い人になってくるね、もうあげな奴はおらん、もうあげな奴は鬼のごたる奴と言う人がもしあなたの周囲におるなら、あなたは地獄にいってるのと同じ事。
  赤鬼、青鬼からにらまれとるようなものです。けどもあの人はやっぱり仏様のような人じゃ、神様のような人じゃと自分の周囲の人達が言うなら、人間のそれぞれに頂いておる神性が自分の輝きによって見えてくる。あの人は神様のような人、仏様のような人の中にあるんだからこれは極楽でしょう。それにはまず、垢落とし、まず改めなければならん。

  先日、中村徹美先生が研修の時に発表しておりましたが、「黙って治める」と言うことはね、心を神様に向けることだからと言っています。「黙って治める」と言う事は、言うなら取りも直さず「地の心」ね、「土の心」なんです。清まっていく、改まっていくと言うことは、言うなら「天の心」を目指しておるのです、限りない美しい心を目指しておるのです  ね。

  昨日は永瀬さんのお宅の恒例の謝恩祭が、それこそ教会の大祭でも勝たんごと賑やかなお祭りでした。初めて永瀬さんが副斎主をつとめて本当に感動的なお祭りでした。
  私があちらで頂きましたことをいろいろ聞いて頂きまして、この事だけは私は言い忘れておった。と言うのは、天地の「地」という字のね、土扁になるでしょう  ね。十を書いて下からはね上げてある。そのはねあげてあるところがない。そして横に「也」という字が書いてある、これを大きく頂いたんです。
  だから結局「也」というのは、何百何十何円也、とこう言うのはもうこれに極まったという事です。これから下はないと、言うことですね。もうお道の信心は「土の信心」に極まったと。
  昨日はあちらで「天行・地行」という事について頂いた。もう二十数年も前に、私が伊万里にいった時に大きな茶碗に「天行・地行」と書いて高芝さんに天行でしたか、あ々天行が永瀬さんでしたね。地行を高芝さんに差し上げとる。その額皿が飾り棚の上に飾ってあった。それからヒントを得て御理解を頂いた。「天行」もうあの時分から「天行・地行」と言ってたんですね、合楽では。

  限りなく美しくならなきゃならん、限りなくいよいよ黙って治めて、いよいよ心豊かに大きくしていかなければならない  ね。
  私が、いつも信司郎さんに申しますように、問題があってお届けに来ると「あんたがきたなかけんばい」と、「あんたが太る以外ないばい」と、もうこれだけなんです。太れ太れなんです。ね。
  それこそ二十六日の山口支部の共励会を、これは二十六日じゃけんで太ろう会にしたらよかろうと私が申しました。「ふとろ」と書いてある、二十六は。で今度行った時には、光昭が参りましてから、親先生から「合楽の二十六日の信心研修はふとろ会と言うたらよかろうと言われた」と言うんで大変皆さんが喜んだと。もうみんな太りたいわけなんです、大きうなりたいわけなんです。だからふとろ会を名前をつけたから太るということではない、本当に太りたいならば、太るだけの手立てをしなければならない。栄養を取らなければならないね。それこそ「黙って治める」

  久留米の今村さんの発表じゃないですけれども、最近は私はもう心が肥えるという事だけに焦点を置いとります。悲しい事もあります、腹の立つ事もあります、けれどもこれが心の根肥やしと思うたらお礼が言えると言っとられます。ね。いわゆる黙って治めると言うこと。で私が昨日頂いたのは、永瀬さんのところの、地の土扁の上にはね上げるところが足りなかったから、ここが永瀬さんもう一押しと言うところだねというて、聞いて頂いた事でした。
  もう一押し、あれ程しに一家をあげて、長男はお道の教師にまでお取立頂いて、自分は二代続いての言うなら総代の御用も頂かせてもろうて、それこそ降っても照っても朝参りを欠かした事はないという程しの信心をしておられる、その永瀬さんに何をもっと、と願われるであろうかと。
  もう一きばりばい、何をだろうかと。もう限りがない信心には。
  形の上の事は出来ておってもね、このはね上げるという、もちょっとはね上げるという事が私はね、心は信心の定規だからとおっしゃるように、自分の心の信心にみ教えという定規をおし当てて、心の中にあるところの喜び。昨日の御理解を言うと四神様のおことばであるところは、信心させて頂いて憎い、可愛い、惜しい、欲しいと、言うならば取って行けばお徳が受けられるという意味のことを教えておられますがね。そういう例えば心に取り組むということ。言うなら改まりと言う事に、今まで嫌いと思うておった事が好きになる程しの心の変わり方を、神様は願うておられるのじゃなかろうかと。これにもう一精進だ、もう「地の信心」に極まったんだ  ね。
  皆さんこうやっておはなしを聞いておるうちに、成程ね、私のお話を聞いて下さってその気になったら一変にスパッとできることじゃないです。それを一つ一つ自分の心の中から取り外すなら取り外す、加えていくなら加えて行くという生き方に、言うならば一つの信心の正念場をですねそこに置いて行くならば、確かに楽しさも出ろう、有難さ、勿体なさというものも頂けてくるんだ、とね。
  ためには、まず善導を受けなければならない。心の中に有難いとは言うけれども、勿体ないという心はなかなか出てこない。信心も出来んのにこのようなおかげを頂いて良かろうか、勿体ないことじゃ、お礼の足りないお詫びばかりをというような心もそこから出てくるだろう。信心の喜び、いわゆる椛目である。心に信心の喜びの花が咲いてくる、その喜びを常に持ち続けさせて頂くその向こうに合楽世界があるんだ、言うならばお風呂に入れる世界があるんだ。
  まず垢を落とさなきゃお風呂には入られん。そのお風呂には、うめ水もあれば燃えてもおると言うような結構なおかげを頂いておる。それはもう信心の理想であって、そげん誰でんおかげは頂かれんじゃろうと言うことじゃない、合楽ではみんなそれをおかげは受けられるという確信をもって信心を進めておる。ここに合楽という、言うならば小さい一つの手本があります。その見本、手本を言うならば下敷きにしての信心だから出来んことはない。先生は口ではあげん言いなさるけれども、自分なおかげ頂ききっておんなさらん、ということはないでしょうがね。それこそ鶴見教会の桜井先生じゃないけれどもね、神徳燦然と輝くお広前と言うことはね、合楽のどこを見ても足ろうたおかげ、言うなら真・善・美に足ろうたおかげね、貧・争・病のないという事実が見ただけで感じられる、そういう世界に言うならば住まわせて頂いておる合楽なんですから、その合楽にご縁を頂いておる皆さんもです、そういう生き方をなら親先生が言われることを本気で行ずる事になれば、御理解百節のめでためでたと言うような、しかもそれが子孫にもつながり、繁昌の道もそこから開けてくるというおかげ。しかもそれは特別な人じゃなければ出来まいと言うのじゃなくて、九十九節にありますように「この方は無学でも」と言うのはね言うならば誰でもと言うことになる。金光様のご信心はね、学問が出来なきゃといったようなこっちゃない、人間が賢うなからなければというという事ではないということなんです。その気になれば誰でもおかげがうけられる。

  一心とは、稲員さんの例をもって申しましたように、霊様が本当に極楽、今までの世界から今までの垢を霊ながらも落とさせてもろうて、さあこれからいよいよ極楽という前提にあられる事をお夢にお知らせ頂いておられるように、私共も今こそ合楽世界に住まわせて頂く前提にあるんだ、ね。
  修行中の時には昨日矢野先生が頂いとりますように、窮屈な土の穴のような、そのほら穴のような横穴をズ-っとそのやっと通られるところを通っておるところをお夢に頂いた。そして出きったところがそこにはもう岩清水がこんこんと湧いているところである。だからそこを貫かねばダメだって。この窮屈なというところで貫いた向こうにそういうお恵みの水に満ちあふれた世界があるんだ。只今修行中という看板かけてるところにおかげのあろう筈はない。その修行を貫いたところにおかげがある。その貫くということが今日聞いて頂く一心を立てなければ出来んのでございます。後戻りしうごつなってくるですね。
  しかもその一心という事は黙って治めるとき、もうここはとても一口言わなきゃおられんと言うような時でも「金光様」と唱える、それが一心なんですね。だから神様に通うのです。「一心を立てる」と言うことはね。
  この世では金光様、あの世では仏様といったようなのは、これはもう一心ではないということを今日は聞いて頂きましたね。

  また一心という事は、なら拝むにもこの九十七節には拍手をしてとこうおっしゃるね。御神前に向ったが最後、後ろから槍先で突かれるような事があっても振り向いてはならん、神に一心とはというふうに神に届かんね、物音を聞くようでは。御祈念中にまだ物音が聞こえたらまだ神様に一心ではない。なかなか出来ませんけれどもね、やはり振り向かん言うならば修行が必要である。

  人からとやこう言われます。「金光様の信心しよってどうしてこうの」といろんなふうに言われる。そすと心が迷う、それこそ槍先で突かれるような、人がとやこう言うような時があるけれども、今こそ後ろから槍先で突かれておる時と思うて、そげな事には耳を貸しちゃならん。
  只々合楽に根差しを置いて、親先生があ々いう難儀な中からあ々いうおかげを受けておられるんだから、これは親先生の独壇場、親先生の言うなら専売特許じゃない、誰もがおかげを受けられるんだとおっしゃるのだから、という一心をもって私は貫いていかなきゃ、それが一心なんですね。

  今日は信心させて頂く者の上にも一番大事な一心の、いろいろを聞いて頂いた訳です。


                                            「どうぞ」